運転するときに

合宿免許でトンネル内に入ってはいけないと表示されているのに誰もその指示に従わず、結果的に大量の犠牲者を出した東名の日本坂トンネルでの火災事故など、その典型でしょう。


たとえば冬になると多いのですが、太陽が当たっているところは路面が乾いていますが、山の陰になるところは湿っていて、夜間、早朝にはそこが凍っていることがあります。


「路面凍結」の標識があるべきところなのです。


こういう路面状態は、実際にそういう場面に遭遇しないとわかりません。


パチンコとパソコン 3


アメリカ的合理主義からかんがえれば、すくなくとも50ないしは100ヘクタールを単位として大型農業機械を導入しそれを数十所帯で共有し・・・


ないしは経営を共同化することのほうがはるかに合理的ということになるのであろうけれども・・・


日本の農民たちはそうした大型機械の導入にはほとんど興味をしめすことなく、小型の農業機械をそれぞれにつつましく個人所有することに興味をしめしつづけてきたのです。


その傾向は今後もおそらくかわることはあるまい、と思います。


・・・これもまたわたしにいわせれば、日本的「個人主義」のひとつの表現形態なのでした。


こんなふうにかんがえてくると、パチンコのなかには日本文化を解くためのもうひとつの重要な手がかりがふくまれているようにおもえてなりません。

パチンコとパソコン 2


いうまでもなく、マージャンというのは人間対人間のシステムです。


すくなくとも4人の人間がいなければマージャンは成立しないし、パイをガチャガチャいわせながら無駄話をしながら遊ぷのがそもそもマージャンの楽しみというものなのですから・・・


そうした人間くささを愛好する人びとが、機械を相手とした「マン・マシン・システム」に違和感をおぼえるというのは、わたしにはじゅうぶん納得できたのです。


さらにこのような日本の「個人主義」は、日本におけるさまざまな機械が共同所有という形態をとらず、常に個人所有にかたむいているという事情とも関連しているでしょう。


わたしは自分の職業がらこれまで30年にわたって日本の農村を勉強してきました。


そこで気がついたきわめて重大な事実は、わずか1ヘクタールにも満たない小さな耕地しかもっていない農民たちが、それぞれに小型の耕作機械や運搬機械を個人所有しているという事実でした。


パチンコとパソコン


近年、さまざまな事業所でパソコンはこんにち全盛をきわめています。


多くのオペレーターはCRTにうつしだされてくる文字や数値をカーソルをうこかしながら、つぎつぎに処理していますが・・・


CRTを真剣にみつめるオペレーターたちの表情とパチンコの盤面を食いいるようにながめているパチンコ・ファンの表情とのあいだにはおどろくべき類似性があるような気がします。


そして、パソコンにとりつかれた人びとが時間の経過をわすれて、機械を相手に自らの世界に没入しているのとおなじように・・・


パチンコ・ファンもまた完全に「マン・マシン」システムの魅力のとりことなって、そのシステムのなかに自らの全精神を没入させているかのようなのです。


じっさい、ある技術者からきいた話によると、パチンコ経験のある人ないしパチンコを趣味としている人びとは容易にパソコンの世界にのめりこんでいくといいます。


パチンコとパソコンはいずれも人間・機械系の対話なのですから、連続性があるのが当然といえぱ当然です。


そして、この技術者の観察によると、マージャンの好きな人間はなかなかパソコンになじめないといいます。


食べさせる一族1

わたしの知っているある家族の話を紹介したいと思います。

西城真由子さんは暗かった。

性格ではない。

『食』とか『食卓』に関するイメージ。

それが彼女の場合、幼いころから暗かった、のである。

その原因は父親にあった。

彼は食卓で必ず小言をいいだした。

娘の『行儀の悪さ』にはじまり、妻の『気のきかなさ』、オカズの『味付けの薄さ』に至るまで……あらゆる不満が、家族の集まるその機会を利用して明らかにされた。

また少しでも家族に反論の兆しが見えると、浴びせられる言葉も決まっていた。

「誰に食わせてもらってるんだ」子どもはたしかに、親に食わせてもらって育つ。

お父さんの主張は正しい。

ただ、正しい主張は、それにふさわしい場所でしなければ効果はない。

食卓でそれを実行した場合、結果は『飯をまずくする』だけだった。

真由子さんは就職が決まると、早々に家から離れた。

日本食再発見 7

というぐあいに、ひじょうに手間がかかります。

それゆえに、いっそう、いまの家庭のなかから和風の献立が減っていくことになっているのでしょう。

ところで、現在では、朝・昼・夜と動物性たんぱく質が食卓にのぼらない日はないような食生活です。

昔の平均的な"褻"の食事にくらべると、今日の食事は時間や手間はかけないけれども毎日"晴れの食事"のようなもの、すなわち、高カロリー、高たんぱく、高脂肪の連続で、胃腸ほすっかり疲れ、もしかしたら休息を求めているかもしれません。

いま、私たちの食生活で問題となっているのは、過食・栄養過多と不規則な食生活です。

これボ現代病といわれるガンや心臓疾患、肝臓病などをひきおこす最大の原因になっているのは前述したとおりです。

つまり、この日本古来の食生活である"晴れの食事"と"褻の食事"を組みあわせることが、過食・栄養過剰を防ぐ食生活の原点といっていいのです。

また、この食生活には見逃せない長所があります。

"晴れの食事"が家族全員でしかも数日がかりで準備されたという点です。

最近では、いろんなところで、おせち料理を注文できたりして、どこか商売の感じがしていますよね。

仙術と占い


わたしには一時、仙伝養生法に凝っていた相当長い期間があります。


しかし、吐納・行気・導引の術中もっとも重要な唾液を嚥下する方法だけは、どうしても非衛生的な感じがして実行する気になれませんでした。


私にとって唾液はきたないもの、ニコチンや食物の津の集合物のような感じがするから・・・


どうして仙術ではこんな汚ならしいものを尊重するのかと不思議におもっていましたところ・・・


その後、幻真先生の『服内元気訣』を読んでいて、仙術でいう唾液は私の思っているようなものでないことを始めて知りました。


「・・・唾を嚥下する前には、かならず濁悪の気をまず口内から外部へ吐き出す。


それも吐き出す前に一旦口を閉じ、咽喉元まで誘い出してから内気の力をこめ、口を大きく開いてカッと吐き出す」。


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日本食再発見 6

昨今は、加工食品や調理ずみお総菜の利用で、料理についやされる時間も年々短縮され、三十分が大まかな単位になっています。

つまり、メニューもそれなりの幅で制限をうけているのです。

では、おせち料理などで伝統的に伝えられてきた日本的な総菜はどうでしょうか。

これらは、たいてい、野菜の皮をむいてアクをとり、火にかけ、調味料の昧を砂糖、酒、みりん、しょうゆ、塩などと順ぐりにしみこませていきますから、下ごしらえからあわせると、長いもので数時間、短いものでも小一時間かかってしまいます。

さらに、これらのどれをみても煮しめやきんぴらごぼうなど、ひとつのおかずだけで食事をすませるわけにはいかないものばかりです。

要するに、和風料理の食パターンを構成しようとしますと、

一、より多くの時間がかかる。

二、同時に複数の料理を進めていくだけの、頭と手の技術を必要とする。

三、より多くの材料を必要とする。

四、料理の昧つけがデリケートなので、同じものをつくっても十人十色の味になる。

五、調味料もだしも、昆布、しいたけ、かつお節、だしじゃこ、酢、酒、みりんと料理が完成するまでに多くの種類を必要とする。

六、たくさんの鍋類が汚れると同時に、たくさんの小皿が汚れる。

たしかに、おせち料理はたくさんのお惣菜を使っていますね。

フルーツいろいろ話4

「それでは、お言葉に甘えて……」。

皿の上で果実を手で持ち、ナイフを使って皮をむく。

緊張しすぎてもいけないし、油断してもいけない。

モモの実はくすぐったがって皿から飛び出してしまうから。

そんなことなら、ペンタキープでいかにおいしいモモを作るか考える方がいい。

さあ、ここからもまた要領がいいのと悪いのと差がつく。

丸いままかぶりついてはいけないことになっているのだから、切らなければならぬ。

手でつかんだり押えたりしてはいけないそうだから、すべすべした皿の上で果実を固定するのはフォークだけしかない。

本人は気がつかないが真剣な顔がおかしい。

フォークで果実が逃げないように押さえて、果肉を四つ切りぐらいに切りとる。

切りとったかたまりが大きかったらさらに小さくして、これでやっと口に入れることが許される。

ひときれずつは事めんどうなりと、切るだけ切ったらあとはフォークで突き刺して、というのは無作法なやり方だそうだ。

だから、ぼくは人前でモモを食べるのはいやなのだ。

フルーツいろいろ話3

野育ちのままでこの年齢になってしまったので、モモの花 種との付き合いも粗野なのは自分でも分かっている。

それゆえか、おミカン、おリンゴ、おフルーツだとか水菓子、こういうふうにモモを眺めるムードが分からない。

モモがほんとうにおいしいなあ、と思うのは人目につかない所でしゃぶりついた時だ。

気に入った一個をてのひらにのせて、ひととき、うぶ毛の手触りを楽しむ。

そしてやおら十本の指を操って薄い果皮をむき口の方を寄せるようにしてしゃぶりつく。

甘い果汁は指を伝い、果ては手首にまで届くが、そこは手なれたあしらいで吸う、すする。

その間一、二分、そうこうしているうちに口の周りや指の先には芳香がしみこんで、さながら陶酔の状態となる。

やがて果肉は姿を消す。

指をなめなめ余香を楽しんで後に大きな種が残る。

これがテーブルマナーとなるとむずかしい。

「くだものでもどうぞ」とすすめる側は、まず果実をきれいに洗って、ナイフ、フォーク、ナプキンを添えて出す。